岳学

感じたこと、思ったことを忘れないように綴っております。妄言かもしれません。

信頼関係に裏切りはない。裏切られたと思わない関係こそが信頼だ。

信頼していたのに裏切られた。

聞くことのある言葉である。

 

だが、この言葉を思ってしまうことが、相手を信頼していないことではないだろうか。

信頼していたなら、裏切られても後悔はない。

そもそも裏切られたという気持ちにもならないのではないか。

 

信頼していたのに裏切られたと思うこと。

それは、自分が相手を一方的に信じて、

結果が自分の思い通りにならなかったことで、相手の責任とすることだ。

相手にしてみれば、いい迷惑であり、嫌な片思いだ。

 

信頼とは、自分が何の疑いもなく相手を信じることだ。

同じような言葉で信用がある。

信用は信じられる根拠があって信じることだ。

信頼は、根拠はない。

しいて言えば、愛情や仲間意識の感じが根拠かもしれない。

 

信頼とは、相手に敬意を払うこと。

相手を認めているから、信じることができる。

 

信頼したのなら、もし相手が失敗しても慰めてやれるくらいの心を持ちたい。

裏切られたなんて考えもせず、相手のことを気にやれる心を持ちたい。

 

仕事では信頼より、信用する場合が多いだろう。

理由がないのに信じて、お金を出せば大問題になる。

だが、仕事でも、私生活でも、相手を信頼できるような人間関係をつくりたい。

 

相手を信頼できるようになるには、人間関係が大切だ。

人間関係が親密になれば、おのずと相手を信頼することもできる。

相手の失敗も、気にすることもなく、許せるようになるのではないか。

そういう関係になれれば、相手に対する自分の悩みも減るのではないか。

 

信頼し合える間柄であれば、私生活であろうと、職場であろうと気持ちは楽である。

そして何より、人に会うことが楽しくなる。

仕事は相手のために行うこと。それゆえ責任もある。

小学校、中学校などの学校教育を受けた後、皆社会に出て仕事をする。

 

学校の勉強と仕事では大きな違いがある。

勉強は自分のためにするが、仕事は相手のために行うことだ。

 

仕事には必ず相手がいる。

個人であったり、企業であったり、国であったり。

その相手と相互理解をして、一つの社会貢献を成し遂げる。

それが仕事だ。

 

仕事をして報酬をもらう。

それは相手に対して、社会に対して貢献したからもらえるものである。

 

勘違いをしているのが、

会社から与えられた仕事をしたから、

会社からその分の報酬をもらっていると思うことだ。

それは、会社を通じて、相手のため、社会のために役立つことで、

報酬がもらえているのである。

 

そして仕事は、相手がいるゆえに、責任感を持って行わなければならない。

自分の軽率な行動が相手の迷惑になり、仲間の迷惑になり、社会の迷惑になる。

学生時代のように公私分けることなく行動したり、仕事の愚痴など言うものではない。

そのような行為は、仕事相手に対して失礼である。

 

仕事は相手を幸せにするためにすることだ。

そしてその報酬は、親からもらうお小遣いとは違う。 

そう思うと半端な気持ちで仕事はできないのではないか。

悩みや煩悩は人を成長させる。

悩みや煩悩。

それらがあるため、人は苦しむ。

子供から老人まで、それらに日々苦しめられている。

 

人は何故、悩みや煩悩に苦しみ続けなければならないのか。

古人も悩みや煩悩に苦しめられた。

昔から今も、苦しみ続けている。

 

何故か。

それは悩みや煩悩が、自分を成長させるために必要だからではないだろうか。

 

人は問題にあたると、悩み、考え、人と相談し、解決方法を見出す。

嫌なことはそのままにしたくない。

そして、同じ問題に対し、スムーズに対処できるようになる。

つまり、成長するということだ。

 

様々な悩みや煩悩があるからこそ、

人は多種多様に成長することができるのではないだろうか。

 

悩みや煩悩のような苦しみが無ければ、人は変わらない。

平和であれば人は成長しない。

苦しみに立ち向かうからこそ、人は成長する。

 

だが人にも限界はある。

美味しい料理も食べ過ぎれば体の害となるように。

悩みも抱えすぎては体の害となる。

そんな時は忘れて初心に戻るといい。

 

悩みや煩悩からは、生涯開放されることはないだろう。

人である限り、悩みや煩悩はつきまとうものだ。

だからこそ、過剰に苦しみ続ける必要はない。

悩みや煩悩が、自分を成長させてくれる。敵ではない。

そう思えば、心も軽くなる。

 

そして、悩みや煩悩に立ち向かおう。

そうすれば、明日の自分がある。

人の居場所とは。

自分の居場所とは何か。

家であると答える人もいるだろう。

友人や恋人と一緒にいる時間と答える人もいるだろう。

職場が居場所と答える人もいるだろう。

 

私は思う。 

功績や立場を武器にして、ふんぞり返る場所は居場所ではない。

地域社会のことを考えず、一人で好き勝手に暮らしている場所も居場所ではない 

自分にとっては気持ちの良い居場所かもしれない。

だが、周りからしたら迷惑であり、居ては困る。

 

居場所は自分の感情だけでなんとかなる場所ではない。

周りに認められて存在する場所である。

 

自分の感情だけで居場所をつくるのは孤独と同然だ。

 

居場所は誰かに居てもいいと認められている。

自分の存在価値を相手に認めらていれる場所。

自分が居てもいいと思える場所。

安心が得られる場所。

そういう空間が自分の居場所ではないだろうか。

人と共存できて居場所がある。

 

だからこそ、人は行動を起こさなければならない。

黙り込んでいても、居場所は与えられるものではない。

人の役に立ち、相手と喜びを分かち合えてこそ居場所がある。

周りと共存して認められてこそ居場所がある。

孤独に居場所はない。

 

赤子も愛嬌を振りまいて自分の居場所をつくろうとしている。

思えば人は生きている間、自分の居場所を求め続けているのかもしれない。

心を子供に学ぶ。

生き物の純粋さについては、大人より子供が優れている。

人は大人になる過程で、社会観や、物の価値などを知り、欲を覚えていく。

欲は人の心を惑わす。

よい面もあれば、悪い面もある。

欲を知らない子供は大人より生き物として純粋だ。

 

子供は素直だ。

素直ゆえに行動も礼儀正しい。

人と会えば、挨拶をする。

電車でお年寄りがいれば席を譲る。

落し物を見つければ交番へ届ける。

こういう風景は大人より子供のほうが多いのではないか。

 

大人は子供の手本であるべきだ。

だが、純粋さ、素直さ、優しさについては大人は子供を見習うべきだ。

子供のような優しさを持てれば、大人はもっと子供の目標になれるのではないか。

 

子供に教え、守り、そして心を伝えられる。

そんな大人でありたい。

 

今の大人はどうか。

社会に潰され。

心をすり減らし。

自分のことしか考えられず。

人の前で平気で愚痴を言う。

そんな大人が子供に心を伝えられるだろうか。

少なくとも、子供は食事の場で愚痴を言わない。 

 

手本となる大人が、子供から心を学ぶ。

情けないことではないか。

私もその情けない大人である。

だが、そうしなければならない。

人を信じ、素直で、人に優しくありたい。

子供から学ぼう。

まずは相手を知ることから。そこから宝を得る。

人と付き合うことは、まずは相手を知ることだ。

相手を知ることで、

相手を思いやることができる。

相手とともに仕事をすることができる。

相手とともに生活をすることができる。

相手と友人になれる。

相手と和解できる。

 

初見で嫌な人だと思うこともある。

気難しい人と思うこともある。

 

SNSなど、言葉でしか通じ合えない場では、

言葉からすぐに嫌な人と思うことはよくある。

 

だけれど、そういう嫌だと思う先入観を捨て、

まずは相手を知ろう。

相手を調べ、相手のことの専門家になってみよう。

 

そうすることで、いい所を見つけ、親しくなれることもあるだろう。

もちろん、それでも嫌だと思えばそこまででいい。

合わない人もそれはいる。 

 

人を第一印象だけで捉えては、人生の損だ。

第一印象から、第二印象。

相手の発する言葉に耳を傾けてみよう。

相手の行動に目を向けてみよう。

第一印象で人の選り好みをするのは、自分勝手である。

自分の気持ちだけで人付き合いをしているからだ。

 

その人を熟知し、深みを知る。

第二印象を持つことで、将来の友にもなれるかもしれない。

自己理念を少しの間だけ捨てるだけで、わかることもある。

 

信頼できる人ほど人生の宝はない。

信頼できる人を得るチャンスを第一印象だけで捨てていいのだろうか。 

 

相手のことを知る。

嫌だと思っても、まずは相手とじっくり付き合ってみる。

そうすれば、意外なこともあるかもしれない。

重荷をおろして、心を軽くする。

昨日、あんなことをしてしまった。

今日、こんなのミスをしてしまった。

上司に叱られた。友人につまらないことを言ってしまった。

人に対しての言動で、心に重くのしかかることは誰にでも日常にある。

 

そういう時ほど、四六時中思い悩むことがある。

悩めば悩むほど重く感じ、気分を悪くする。

 

でも、解決はしない。

それはそうだ。

相手の気持ちは自分には分からない。

相手の気持ちは相手の心の中にだけある。

相手のことをいくら考えても分からないのだ。

 

ではどうする。

要は自分の心の持ちようなのだ。

 

心を軽くする。

悩んでも悩んでも解決しないこと。

自己責任に悩まされる。

それらから、心を解放させよう。

 

自分に問題があると思う人ほど、責任感があるのではないだろうか。

思いつめる人ほど、責任を背負っているのではないだろうか。

自分が悪いと考える人ほど、周りに気を使っているのではないだろうか。

 

そういう重荷は自分の成長の糧になる。

だが、人が重荷を背負える量には限りがある。

責任感のある人ほど重荷を背負える量を知らない。

 

重荷に潰される前に心を軽くしよう。

起こってしまったことは、どうしようもないことだ。

変えられることではない。

なら、今この時、悩みから心を開放し、これから来ることの心構えをしよう。

何とかなるさ、と意気込みをしよう。

 

心を軽くするだけで、次が変わるのではないか。