岳学

感じたこと、思ったことを忘れないように綴っております。妄言かもしれません。

責任感のチカラ

責任感という感情は大きなチカラを持つ。

 

一つ目は責任感を持てば人は大きく成長することだ。

例えば。

人に責任感を持たせるような仕事をさせてみる。

すると、期日までに必死で仕事をする。失敗が怖いからである。

必死で調べ、教えてもらい、実施すればするほど記憶に残る。

そして達成感が、自尊心を刺激し、意欲を高める。 

自分が仕事をするときも同じだ。

 

責任はある意味、期待でもあるかもしれない。

ある事業を成功させたいから君に任せる。

と言われた場合、

これは、貴方に期待しているから責任を持たせているのではないだろうか。

期待できるから責任のあることを任せる。

そうでなければ失敗した時に大問題である。

 

そのような感情があるからこそ、任されたものは必死で仕事をする。

応えたいからだ。

必死だからこそ、期待されているからこそ、人は成長するのではないだろうか。

 

二つ目は責任感を持てば人は丈夫になる。

責任感が体を常に緊張状態にさせる。

失敗しないためにも、期待に応えるためにも、常に気持ちを張らせる。

例え家にいても明日の事のために今を送る。

それゆえ、睡眠時間を削るような重労働が続いても、病気になりにくい。

だが、ひと仕事終えた時や、連休に入ると緊張がほぐれ病気になりがちだ。

責任感が、人の限界以上のチカラを出させているのかもしれない。

 

だが気を付けてほしい。

責任感を持ちすぎると、人は駄目になる。

強い責任感を持った人が、たった一度の失敗でも、その責任感から自分を病む。

我々は人間だ。

神でもない人間の心が抱えられるチカラにも限界がある。

責任感のチカラは大きい。

それゆえに、抱えすぎると心の許容量を打ち破り、害となる。

 

強すぎる責任感は本人には気付かないものだ。

周りが見守ってあげなければならない。

そのためにも、日々のコミュニケーションが必要なのかもしれない。

 

責任感は諸刃の剣だ。

扱いに注意しなければならない。

使うものも、使わされるものも。

忘れられない記憶がある。嫌な思い出、受けた恩。

忘れられない記憶が二つある。

一つは、嫌な思い出だ。

 

恥ずかしかった思い出。

人に迷惑をかけてしまった思い出。

気分を悪くするような嫌がらせ。など。

 

嫌な思い出は何故か忘れられない。

突然、そんな嫌なことを思い出すこともある。

それにくらべ、いい思い出はなかなか思い出すことができない。

 

嫌な思い出のほうが、いい思い出より強く心に残る。

それは、自分が成長するために強く心に残るのかもしれない。

自分の失敗や痴態がそうだ。

また、自分の身を守るために強く心に残るのかもしれない。

危険に遭遇したことや、人からの嫌がらせがそうだ。

他にも理由はあるだろう。

そう考えれば嫌な思い出も必要なものなのかもしれない。

 

そして、

もう一つは、受けた恩だ。

 

失敗した、迷惑をかけた、それでも面倒を見てくれた職場の上司や先輩への恩。

叱られたこともある、だが一生懸命に教え指導してくれた先生への恩。

何時までも仲良くしてくれる友人への恩。

その他にもいろんな方の世話になっている。

 

どんな形の恩であっても、全て大切な恩だ。

それは、歳をとるほど身に染みる。心に染みる。

恩とは得難いものだ。

忘れてはならないものだ。

 

中国の古典に、

人に施したことは忘れてしまえ、人に掛けた迷惑は忘れるな。

人から受けた恩は忘れるな、怨みは忘れてしまえ。

とある。

 

そのとおりではないか。

自己中心的な感情が身を滅ぼす。そして、周りを不幸にする。だが理解してほしい、それは貴方次第だと。

人の感情で妬みや嫉みはたちの悪い感情だ。

相手のことを羨ましく思うだけでなく、相手の不幸を望む場合もある。

 

相手は良くて、自分は何故駄目なのと考えてはいないだろうか。

こういう感情を抱くのは、

生きていく方法を自分を中心にしか描けないからではないだろうか。 

 

妬みや嫉みを抱いたところで何がある。

現実は変わらない。自分がつらいだけではないだろうか。

 

そんなことを抱くより、相手を認めること。

相手の幸福に自分も関心を持ってあげれば、素直に喜べないだろうか。

 

妬みや嫉みを抱いて、反発しあい、自身を向上させる。

良いことだ。

だが、仲間の幸福を祝ってあげれない自分は醜いものではないか。

仲間と幸せを共感できる人でありたい。

 

福沢諭吉も妬みは人間社会の最大の害と言っている。

 

だが私の場合、さらにたちの悪いと思う感情がある。

それは、自惚れだ。

自惚れほど惨めなものはない。

自惚れるがゆえに、周りと格差がでた時、うまくいかなかった場合に、

妬みや嫉みを起こす。

自己中心的であるからだ。

自惚れるがゆえに、過ちに気づかない、改められない。

自尊心が強すぎるからだ。

自惚れるがゆえに、痴態をさらし、周りの人の気分を悪くさせる。

今の自分しか見えていないからだ。

私は、自惚れは身を滅ぼす最大の害だと思う。

 

妬みや自惚れは、自分のことしか考えられないゆえに起きる病気だ。

それは弱さから起きるのではないだろうか。

弱いから自分を守ることに手一杯で、周りを大切にできない。

 

だが、考えてほしい。

妬みや自惚れで守ろうとしているのは何か。

それは、自分が勝手に作った立場や名誉などのレッテルではないだろうか。

 

もし、そうであるなら冷静に、一歩下がる考えを持ってほしい。

守るものも失うものも、自分の感情次第なのだ。

 

人間なんだから、すべてがうまくいくとは言えない。

だが、感情的になる前に、冷静に、一歩下がって物事を考え、人生を歩みたい。

 

失敗を恐れるな。失敗があるから幸福がある。

自らの行動で失敗を感じるタイミングが二度ある。

一度目は行動した直後、場の空気や相手の出方などで感じとる。

二度目は後日、あの時の行動は失敗だったと思い出したり、他人に教えられた時。

 

行動した直後に失敗を感じた場合は、すぐに素直に謝ろう。

すぐに謝り、行動を直せば大事になることはない。

 

問題なのは、後日になって失敗と感じた場合だ。

失敗の翌日なら、あの時は申し訳ございませんでしたと謝ることもできよう。

しかし数か月後、数年後に気が付いたとしたらそれはどうすることもできない。

それよりも、ここでは学ぶことが大事だ。

同じ失敗、同じ羞恥を繰り返さないようにすることだ。 

 

だが、もっとも大方の、いやすべての人間が、

以前やった失敗に気づかず同じことを繰り返してしまう。

癖になった失敗ほど、たちの悪い失敗はない。

 

人間は失敗をするものだ。失敗を繰り返すものである。

そして、少しずつながらも成長している。

また、同じ失敗してしまった。と思ったとき、

また、と言っていることは以前のことを覚えているからではないだろうか。

 

人間は一度に多く学ぶことはできない。

また、と思う様に少しずつ学ぶしかない。

 

故に、失敗を恐れてはいけない。

失敗はつきものだ。

失敗し、学び、成長する。

失敗を恐れて行動しないことこそ、最大の失敗だ。

 

そして、失敗し、少しずつ学んでいった先にきっと幸福がある。

苦労を重ねた故に、それはきっと大きな幸福になるはずだ。

今までにもあるはずだ。失敗を積み重ねて得た大きな幸福が。

これからにもあるはずだ。失敗した先に大きな幸福が。

失敗から学び、幸福を感じよう。

ありがとう。その一言が良い職場をつくる。

仕事のやり方を教えてくれた。ありがとう。

自分の成果物をチェックしてくれた。ありがとう。

自分のプレゼンを聴いてくれた。ありがとう。など。

職場で、仕事で、ありがとうを言えているだろうか。

 

仕事の中で、他人に何かしてもらうことは必然である。

その何かしてもらうこと、どんな些細なことでもいい。

ありがとうが言いたい。

 

仕事だから。手順だから。

当たり前のことだから。

そう思う人もいるだろう。

 

でも、貴方のおかげで私は仕事をできる。

私の助けになっている。

もっとほかの理由もあるだろう。

 

だから、仕事でも、ありがとうを言いたい。

 

学校でも、授業の終わりに、言っているではないか。

ありがとうございます。と。

 

ありがとうの一言があれば、職場は明るくなる。

ありがとうの一言を言えば、気持ちよく仕事をすることができる。

そうなれば、仕事に対する抵抗も少なくなるのではないか。

 

ありがとうが言えるのは、良い職場だ。

だから、まずは自分から、ありがとうを言おう。

文化はその国民の精神である。文化を認め合うことで、人は上手に付き合える。

世の中にはたくさんの文化、風習ある。

国家規模の文化、地域規模の風習、会社や学校などの小さな規模の決まりごとまで。

 

自分から見て、素晴らしい文化もあれば、理解し難い風習もある。

異なる文化があるから、面白いこともあれば、辛いこともある。

 

そんな文化、風習は、そこに住む人々の生き方であり、精神でもある。

それを非難してはいけない。

自分の文化を相手に押し付けてはいけない。

どの文化が正しいなんてない。すべてが正しいのだ。

 

他の文化に接する時には、その文化に従わなければならない。

そこに住む人々が長い年月をかけて、作ってきた文化だ。

それを今日やってきた人によって乱されては堪ったものではない。

 

例えば。

職場が変わった時には、まずは新しい職場の文化を理解しなければならない。

もし、前の職場のやり方で行えば、周りとうまく仕事ができるはずがない。

留学した時には、その国の生活様式に従う。

留学先の生活様式を気にせずに過ごせば留学先の人々に不快な思いをさせる。

友人の家へ行った時も、その家の決まりを守る。

 

郷に入れば郷に従え。

これを忘れてはいけない。

 

しかし、相手の文化を見習い、自分の文化を改めることは良いことだ。

そうやって、明治の日本は近代化することができた。

もちろん、一人勝手にやるのではなく、周りの人と理解し合わなければならない。

文化は皆の共有の財産だからだ。

 

他人の文化を理解し、尊重する。

そうすれば、些細な揉め事も、紛争も減るのではないだろうか。

 

人はどうしても物事を自分の考えだけで捉えがちだ。

相互の文化との違いを理解しなければならない。

 

そして、お互いが認め合えば、

国境があっても、うまくやっていける。

民族や習慣が違っても、友人になれる。

そうではないだろうか。

人を許し、そして自分を戒める。

人には寛容でありたい。

 

些細な迷惑行為。

ちょっとしたモラルマナー。

仕事などでの小さなミス。など。

 

場合によってはムッとくることもある。

嫌だと思うこともある。

自尊心を傷つけられることもある。

 

だが、そこで怒ってなんとなる。

口論となってなんとなる。

それこそ、小さな行為ではないか。

 

相手も自分も人間である。

無意識で迷惑なことをしてしまうこともある。

やったことが悪いことだと分からないこともある。

悪気が無くても、相手に不快感を与えることもある。

それが人間だ。

 

意識していても、人がルールやモラルを完璧に守れるわけがない。

そう分かれば、寛容になれないだろうか。

まあ、仕方ないことだ。と、許せることではないか。

 

だが、自分には厳格でありたい。

許した相手の行為は、少なくとも自分は嫌だと思った行為だ。

それを自分が行ってどうする。

 

許した相手の行為は、言はば自分の手本だ。

相手を許せれるのなら、自分は改めることができるのではないか。

 

人を許し、そして自分を戒める。

心掛けていきたい。